100年の始まり

創業は、 珍味「のしするめ」から始まった。

風邪のわが子に栄養をつけてやりたい。 その親心が思いついたものとは……?

するめの写真
それは、今を溯ること100年前、大正2年(1913)頃のことです。菊池食品の創業者、菊池足真彦は、徳川家にお仕えした漢学者、菊池三渓(1819~1891)の孫として、東京三河島に居宅を構え暮らしておりましたが、ある日、子供の一人が風邪で熱を発し、寝込んでしまいました。その苦しそうな様子を見て、足真彦や看病する家族もまた切なくつらい時間を共にしていました。わが子の風邪を少しでも早く治してやりたい、栄養をつけて早く元気な体に戻してやりたい、と考えていた時、ふと足真彦の目にとまったもの。それは、台所にあった干しスルメです。
当時、イカを干したスルメは安価な食品で、庶民にとってはきわめて身近なタンパク源でしたが、一方、肉類や卵は高価で日常的な食べ物とはいえない貧しい時代でもありました。折しも、その年の夏、東北・北海道地方は冷害による記録的な凶作となり、多くの人々が苦しい生活を送っていました。余談にはなりますが、この頃、全国の自動車保有台数は521台、板橋で3LDKの広さの家賃は5円程度だったといわれています。
さて、スルメを手に取った足真彦は、はて、どうしたものやら……と思案にふけりました。スルメは固く、このままではとても子供の口には入りません。ならば、柔らかくすれば良いではないか! そう思いついた足真彦は、まずスルメの足と耳をもいでから皮をむき、それをお湯につけ込んだのです。これで、かなり柔らかくはなりましたが、まだまだ子供にとって食べやすいとはいえません。子供に栄養をつけてやりたいという一心の親心は、躊躇なく次の手順に入ります。台所の片隅にあったうどん練り機のローラーで、柔らかくなったスルメをのばし始めたのです。すると、どうでしょう! スルメはするするとのび、今でいうところの「のしするめ」になったのです。足真彦はすぐ風邪の子供に食べさせました。美味しそうに食べるわが子の顔を見て、足真彦は満足気にうなずくのでした。

「これは商売になる!」と、考えた足真彦は、 試行の末、珍味「のしするめ」を考案した。

当初はこのように、風邪の子供に食べさせたいという理由でつくり出されたものではありましたが、そのあまりの美味しさに、家族の間でしばしば食べられるようになりました。そうしたある日、足真彦の頭にひらめくものがありました。「この美味しさを、われら家族だけのものにしておくのは、もったいない。絶対に売れる、商売になる」という一種の啓示にも似た確信です。
それから足真彦は、商品としての“売れる”のしするめを製造するため、製造工程や味つけなどに試行錯誤を繰り返しました。そして、いきついたところは、製造方法もさることながら、やはり品質の良い素材を使用するのが一番重要だという、基本的なことでした。 まず鮮度のいい肉厚の干しスルメを一つひとつ吟味します。次に足と耳を取りはずして、業界用語でいうダルマの状態にします。さらに皮をむく段階までは最初から同じなのですが、お湯につけ込むとスルメ独特の風味が損なわれることに気がつきました。そこで、皮をむいたスルメを蒸してみたところ、風味が保たれ、格段に美味しさのレベルがあがったのです。
この頃合いに柔らかくなったスルメをローラーにかけるわけですが、いっぺんに薄くのばすと、目が粗くなります。そのため、時間をかけて少しずつのばすことにしましたが、それは8工程にも及ぶものでした。品質のいい肉厚のスルメは、のばしきると 2メートルの長さにまで達します。最後の工程は、ガス焙焼機にかけてあぶり焼きにします。この一段と風味を増した、のしするめをみりんと砂糖等を絶妙に配合した調味液につけ込むと、いよいよ完成となります。かくして、ここに創業の起爆剤となった一大ヒット商品、珍味「のしするめ」が誕生したのです。大正3年(1914)のことでした。
のしするめの写真
のしするめ
のしするめの写真
のしするめ
のしするめ(みりん味)の写真
のしするめ(みりん味)

最初に販売した日本橋の地名にちなみ、 「日本橋焼いか」の商標で市販された。

日本橋焼いか
この珍味「のしするめ」をどこで売れば、最も良いか。足真彦は頭を悩ませた結果、東京のど真ん中、日本橋で販売することを選択しました。日本橋には、日本初のデパートといわれる「三越百貨店本店」、江戸時代に創業された食品問屋「国分」、さらには東京築地市場の前身である日本橋魚市場などがあったのです。足真彦は、開発したばかりの珍味「のしするめ」を上記各社に持参し、商品として扱ってくれるよう積極的な売り込みを図りました。
その意欲的な姿勢と「のしするめ」の風味豊かな美味しさが功を奏し、各社の取り扱い商品となったことは申すまでもありません。たちまち今までにない独創的な珍味として日本橋界隈で話題になり、やがて全国に名を轟かせることになったのです。珍味「のしするめ」は、この最初に販売した日本橋の地名にちなみ、「日本橋焼いか」という商標が冠せられました。「のしするめ」の人気が急上昇するにつれて事業規模は拡大し、今までの工場では押し寄せる大量の注文に対応できなくなりました。そこで足真彦は、現在の本社地である東京都板橋区大山東町に工場を移転し、さらなる事業拡張に備えることにしました。
時代は下り、昭和14年(1939)、第二次世界大戦が勃発すると、弊社の板橋工場は陸軍の指定工場となり、「のしするめ」を軍の携行食料として納入するようになりました。当時、陸軍の兵員は「のしするめ」をセロハンで巻いて携行し、乾パンと一緒に食べたのです。「のしするめ」は軽く、日持ちするという保存性の良さに加え、優れたタンパク源となることから、兵員の携行食としては最適なものでした。 戦後は、都内60万人の学童給食に協力し、数々の賞を受賞しました。また、この当時、一般家庭では、「のしするめ」を短冊状に切り、それを海苔で巻いて、天ぷらにして食べるという惣菜もあり、私たち庶民にとってイカはきわめて身近な食材でした。
ところが、昭和40年代に入ると、イカの漁獲量は急減し、スルメの値段も高騰。スルメは、徐々に大衆の手から遠ざかり、いつしか高級品になっていったのです。弊社菊池食品におきましても、昭和45年(1970)頃に、珍味「のしするめ」の生産を打ち切りました。創業者の菊池足真彦が開発してから半世紀以上、弊社の主力商品であった「日本橋焼いか」の伝統はその幕を閉じ、今日の佃煮・煮豆等の食品メーカーとなるに至っています。しかしながら、初代足真彦の卓抜した商品開発力、時代を先見するかのような逞しいチャレンジ精神は、弊社の中に今も脈々と受け継がれ、「黒豆エキス」などの新しい商品開発につながっています。